羽生結弦、その悲壮感。
昨日、久しぶりに実家に帰った。
けっこう久しぶりだったのに、帰ったら誰もいなかった。
若干寂しさを感じながら、突然の来客におびえどこかに隠れているはずの
マロニーとコテツ(猫です)を探していると、ほどなくして母が帰ってきた。
「ただいま!お帰り!羽生結弦どうなった?」
知らんがな。何の話だ。
久しぶりに顔を合わせた息子の近況より、羽生結弦が気になるのである。
バーバパパのような体を機敏に動かし、ソファに陣取りテレビをつける。
今日は平昌オリンピック、男子フィギュアのショートプログラムらしい。
テレビをつけると、ちょうど宇野昌磨が滑走していた。羽生結弦はタッチの差で滑り終わっていたらしい。
「終わっちゃってたかー。スズキサンの話が長いのよね!まったく!」
今日は町内会か何かの寄り合いだったらしい。で、スズキサンの話が長くなって、結果羽生の滑走を見逃した、ということのようである。
「でも最近のゆずは悲壮感が漂ってるからね・・・。今回で引退するんじゃないかな。引き際っていうのは難しいのよ。さ、焼きそば食べよ。あ、久しぶりね」
悲愴感。
以前、浅田真央が引退する前に滑っていたなんたら選手権を見ていたときにも同じせりふを聞いた気がする。母は、フィギュアスケート選手に悲壮感を感じがちなのだ。
でも、私はフィギュアスケートに関しては、悲壮感はプラスに作用すると思う。
たまにフリーとかでやたら陽気な音楽で笑顔満点滑走をキメてる外国人選手がいるが、はっきり言って内容まで稚拙に見える。すごいジャンプをしても、なんだかすごく感じないのだ。これは個人的な意見だけど。
悲愴感は、美しさをキワダタせるのだ。氷上の世界にマッチするのだ。
フィギュアスケーターは、基本的に悲壮感を纏いながら舞い踊るのがいい。緊張感。スピード。ステップ、スピン。ここでジャンプ。そして、最後の音楽が鳴り止むと同時にポージング。やっと笑顔。カタルシス。
羽生は演技中、最後のポージングに至っても殆ど笑わない。拍手が聴こえて、2秒ほどしてようやく笑顔を見せるのだ。
わたしは、そのへんのアレが羽生結弦のカンロクとかミステリアスさとかを作ってるのではないのかなぁ、みたいなことを焼きそばをすすりながら母と話していた。そんな休日だった。